【あの晩】
ヴァン-私が愛したスパイ-ショート・ストーリー②
ヴァンの家を辞してバス停へと向かった。
庭で犬と戯れていたあの子が私の足取りを興味深そうに見つめていたので、声をかけるべきか迷った。
何歳くらいだろう。2歳に手が届くかどうかといったところか。
こうして間近に見ると目元以外の部分もあいつと似ていることがよくわかる。
懐かしさがこみあげてきた。
だが、なんと声をかければいいものか。
結局子どもなのに会釈をしてしまいキョトンとされる。朴念仁の自分が恨めしい。
しばらくじーっと私を眺めていたが、そのうち(変なおじさん)には興味を失ったらしく、再び犬に向かって小枝を投げ始めた。
転がるような笑い声を聞きながら歩きだす。
あの子には健やかに育って欲しい。
私が出来ることなら何でもすると言ったが、あの女性が自ら助けを求めるとも思えない。
こちらから声をかけていくべきだと思った。おかしなものだ。また心残りが増えてしまうとは。
バス停脇の山吹の黄色い花に小さなアリたちが群がっていた。
本当にのどかでいい場所だ。
バスの来る時間まで散策をしたいような気持ちになったが、無理をすればこの足が悲鳴を上げるだろう。
次の家に行くのが遅れては本末転倒になる。
諦めてベンチに座っていると、繰り返してきたひとつの思いがまた浮かんできた。
あいつを死に至らしめたのは私なのかもしれない、という思いがー
「あんたが俺の新しい飼い主すか」
諜報活動の指揮を取ることになり、最初に対面した時あいつが言った言葉は今でもよく覚えている。
「俺の条件は2つだけです。それさえ守ってくれればどんなことでもやります」
・仕事に取り掛かる前に報酬は前金でくれ。成功時には必ず上乗せしろ。
・軍資金(関係者への買収など潜入時に使うらしい)はケチらず渡せ
清々しいまでに金に執着するので思わず声を上げて笑ってしまった。
「?なんで笑うんすか?」
「いや、そんなに金が大事なのかと思って」
するとしごく真面目な顔になった。
「あたりまえでしょ」
すっと空気が冷えた。こいつは単なる間諜じゃない、何か信念を持っていると気づいた瞬間だった。
ヴァンは優秀だった。非情なまでに任務を遂行した。民間人を巻き込んでも平気だった。
「あれはやりすぎだ」とたしなめても「結果が全てっすよ」と言い放った。
「上坂さんは甘い。軍人に向いてねぇな」
と、私自身の本質を突かれて憤ったこともある。
だが、あいつを嫌いになることはなかった。
あの晩。
作戦会議と言いつつ中身はたわいない会話に終始した。
勿論、軍への造反の計画はあいつには話さなかった。
酔って軽口混じりで理想とは違う今の現実をこぼしていたに過ぎない。
だがあいつは悟ったのだ。
あの部隊で起きている問題の元凶が何なのか。
その存在がなくなれば物事が上手く回るだろうということを。
……ヴァン、教えてくれ。
私は何か匂わすようなことを言ったか?
なぁ、ヴァン。
おまえは何故察してしまったんだ?
何故、関係のないおまえがそれを実行しようと思ったんだ?
あの晩。
「ヴァン、いいか?日本人は本来礼節を重んじる民族である。駄目だ。今の日本人はみーんな駄目だ!」
酔ってそう繰り返す私を
「へぇ、自分が何国人かなんて考えたこともねぇな。あんた、どうでもいいことにこだわるんすね」
と、あいつはカラカラと笑い飛ばした。
その乾いた笑い方がシャクに触った。
「……そういうおまえは実は日本人だろう?本名は何ていう?」
「……絶対笑うから言わねぇ」
「笑うわけがない。親がつけてくれた大事な名前だろうに。一体誰が笑うんだ」
そう聞くと、少しためらったあとで小さな声で「ばんみつてる」と言った。
「へぇ。漢字は?」
「ひかるにかがやく。……笑っていいすよ。中身と真逆だしだいいち全然似合わねぇし」
「いい名前じゃないか。大事にしろよ、みつてるくん」
「……ちっ、言うんじゃなかった。さっさと忘れろ。ほら、その酒もう一杯くださいよ!」
「あははは」
あの晩、おまえは何を思っていたんだろう―
バスが土埃を上げながらやってきた。
のんびりとした足取りで農家の人たちが次々と降りてくる。
乗り込んだ席から窓の外を見ると、あの子を抱きかかえたあの女性が私を見て手を振っていた。
やさしげな笑顔とヴァンに似た笑顔が並んでこちらを見ている。
頭を下げて私も軽く手を振った。
走り出したバスの振動に身を委ねながら考えた。
次にここに来る時には、玩具や文房具をいろいろ用意しておこう。
朴念仁の自分が選ぶものだから気に入ってもらえるかどうか不安だが、空の上のあいつは「あんたらしいな」と笑い飛ばしてくれる気がする。
なぁヴァン、そうだろう?
(了)